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2007年11月

2007年11月30日 (金)

大先輩

専門家ではない人には知らない名前がたくさん出てきてわかりづらいかもしれませんがご容赦を。


Setugetuka

この書は、鶴木大寿先生の作品。
大正7年富山県大沢野町生まれ。少字数書の開祖 手島右卿に師事。昭和47年日展特選。日展会友、富山大学教授、独立富山支部長、独立書人団参与など。


Oohirakurobe


この書は、大平山涛先生の作品。
大正5年富山県朝日町生まれ。近代詩文書の提唱者 金子鴎亭に師事。昭和40年日展特選。日展参与、毎日書道会最高顧問、日本詩文書作家協会最高顧問など。


鶴木先生の師、手島右卿先生も、大平先生の師、金子鴎亭先生も、近代書道の開拓者 比田井天来門下だったので、「少字数書」と「近代詩文書」と分野は違っても、源流は同じだったということになります。


鶴木先生と大平先生は永遠のライバルで、双方共に高校の教諭でしたが、鶴木先生の富山大学教授就任に対し、大平先生は教職を辞して上京されたそうです。


鶴木先生は、僕が小4〜中3まで教わった高田寿華先生と、20〜25歳まで教わった米谷大洋先生の師匠で(米谷先生は手島右卿先生の弟子でもあった)、大平先生は、僕が高校で教わった馬場雨川先生の師匠でした。


Fudan

鶴木先生は、僕に会うたびに「君の書には樂毅論の強靭な線が宿っている」と言ってくださり、

大平先生は、僕の『廻』を見て「マグマのようなエネルギーに感服した」と言ってくださいました。


Kai


現在の森大衛は師を持たず、テレビにも出て異端なイメージを抱いている人もいるようですが、それぞれのお弟子さん方とも交流を持たせていただいており、その他の先輩方の書の“気”も吸収しながら、森大衛としての書を確立できればと思っています。

なんだか優等生過ぎる締めくくりになってしまったかもしれません。
でも書をやっている限り、古典や近代書も含め、偉大な大先輩や書の名作の息吹を得ずして書を書くことはできません。
いずれ他の先生方や友人達の書も紹介していきたいと思います。

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2007年11月27日 (火)

Mail9

この筆は23年前に初めて購入した久保田号製の「空有」(当時40000円)です。
相当使い込んでいるので墨の膠がしみ込んで黄色くなっています。肉眼だと金髪に見えるんですよ。ちなみに隣に写っている黒ずんだ筆は僕の筆ではありません。墨汁を使っているものは金髪にはならないのです。

さて、森大衛がこの筆で書いた作品はほとんどありません。使い込んでいるのにないんですよ。それは作品を書いている途中でこの筆で書くのは辞めて別の筆で仕上げてきたから。なぜそうなのかというと特に理由はなく自然にそうなってしまったから。この筆は一向に日の目をみない少し可哀想な筆といってもいいかもしれません。

ところがところが、この筆を使ってうちの生徒が良い作品を残してくれているんですよ。

Dokuritsu2005_005_002

この作品は2005年の独立書展で秀作を受賞した「戯」です。

ちなみのこの筆とこれを書いた生徒は同い年です。今年もこの筆で書いていました。

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バレーボールと線質

内浦純一公式ブログに登場している左の大将は、中学時代バレー部のメンバーだった荒川君。大衆割烹「あら川」の二代目店主です。

彼とはアタッカーの二本柱として頑張っていたのですが、彼と僕の球質は全く異質でした。
彼の打つ球は素早い弾丸のような球質で、僕の球は重い大砲のような球質。彼の球をうけるとビンタのような痛さで、僕の球は拳骨のような痛さだと言われました。写メを見ての通り、彼の指は太く、僕の指は細いのに。
そういえばセッターが上げるトスもそのセッターによって球の質感が違いました。人の手に触れた球が意思を持ってその人の分身のように飛んで行くというのは不思議なものですね。

書においてもその人の線の質感というものがあります。僕は時々生徒の道具を借りて手本を書くことがあるのですが、同じ筆と墨と紙でもその線の味わいはまったく違ったものになります。とある先生が生徒の作品の中に自分が書いた手本が紛れていることに気が付かずにそれを添削したなんて話を聞いたことがありますが、僕はどんなに達者な生徒の作品の中に僕の書いたものが紛れ込んでいても「これ先生の字じゃん!」とすぐにわかります。


さて、今回提示した「劇」と「剛」には“りっとう”があります。

Photo

明らかに同じ“りっとう”でも見ての通りまったく違った趣きの線が引かれています。「劇」は空(くう)を掴み、「剛」は紙を掻いています。しかし、よくみると前の画からの受け取り方、捻り方、抜き方のスタイルはほとんど同じなんですね。そのスナップの利かせ方がバレーの球質のように独特の線質となっているのかもしれません。

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2007年11月25日 (日)

補足(味覚)

↓“味覚”についての考察では
http://mori-daiei.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_bd67.html
実際に舌で感じる感覚のことは
「墨は美味しいものではない」ってことしか
言っていなかったということに気が付きました。


そこで補足として、
アサヒの焼酎 特集:あなたの「さつま司」を教えてください。
のコメントをご紹介します。

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僕が書家だからというわけではないけれど、
漆黒の富山の珍味「ホタルイカの黒造り」と、
澄明な鹿児島の芋焼酎「さつま司」の、
個性的で濃厚なもの同士のコンビネーションは、
異国の異種格闘技のようでありながら、
深く繊細なグラデーションで大人の雅趣へと導いてくれる。
その舌や喉に沁み入る浸透感は、
墨をじわりと紙に染み入らせる絶妙な筆触の浸透圧に似ていますね。
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2007年11月22日 (木)

『五感』についての考察を
“味覚”「五感」(補足)
“聴覚”「ANNIVERSARY」
“触覚”「解」
“嗅覚”「墨すりて…」
とやってきましたが、
最後の“視覚”については「瀧」を
サンプルにしてみたいと思います。

人間は目を瞑っても何もない暗闇にはなりません。
目を瞑ったその前に手をかざしてみてください。
手の影が見えるはずです。
そしてその手を瞼に当ててみてください。
するとiTunesのビジュアライザーのような模様が暗黒の中に広がります。
森大衛は幼い頃からこんなことをして秘かに楽しんでいた
変な子供だったのですが、同じようなことがきっと
人間の脳裏にもあるんじゃないかと思うんですね。
これは強引に残像を見る方法ですが、
他の“四感”にもきっとあるはず。
感情的なものではなく感覚として。

Row

さて、この「瀧」は2005年の独立書展の
海外紹介作品10点に選抜された作品ですが、
「瀧」そのもののではなく「水」と「龍」という意味で
選んだ文字です。ドラゴンシティーと呼ばれる
香港の夜景を想起して描きました。

Hongkong_007

しかし、そういう具体的な観念を押し付けて
しまうことは本当は良くないことです。
書家が自らの書についてウンチクを語ることほど
野暮なことはありません。
見た人が全く違うものを想起してもなんら問題はなく、
逆に作者のウンチクは芸術を放棄する行為といってもいいでしょう。
公募展は解説をつけて出品するわけではないですから、
その技法と芸術性と精神性を無言で提示し、
見る人にとってはそれが華厳の滝でもナイヤガラの滝でもいいのです。

では、なぜ今回野暮なことを言ってしまったかというと、
自分の中で何か一点に集中的に絞り込んだエネルギーが
別次元にまで広がることが十二分にあります。
ですから、制作者が敢えて着目点を提示することが、
さらに多面性に広がる場合もあることを知ってもらいたかったからです。

五感で感じた感動を自分というフィルターを通してどう消化し、
昇華させるかが表現者としてのエキサイティングな行為であり、
見る人の醍醐味ではないでしょうか?

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2007年11月18日 (日)

題目「匂い」

今回は「嗅覚」についての考察です。


Mail8_2

『墨すりて麝香(ムスク)たゆたふ万葉歌』


これは8年ほど前、フジテレビの「めざましテレビ」内
『松任谷由実選集五七五』コーナーで採用された句です。
「この句を書にしてはどうか?」とリクエスト
されることがありますが、それはNO。

自作の句でありながら今はまだこの世界観を十二分に
表現できる技量があるとは思えないからです。
思い入れが強い分、そのタイミングはデリケートなものです。
告白のタイミングみたいなものでしょうか?


さて、麝香(じゃこう:ムスク)とは、
麝香鹿による動物性の香料。
楊貴妃やクレオパトラも愛したこの香りは
わかりやすくいうと性フェロモンのこと。(ウィキペディア

墨は、油や松を燃やして出た「煤(すす)」と、
鹿や牛の動物性コラーゲン「膠(にかわ)」を
練り込んで作られています。
膠は野性臭がキツいので白檀などの
植物性の香料がブレンドされますが、
乾燥とともに野性臭は薄れていき、
精製された香水のムスクに似た匂いになっていきます。
墨の銘柄やメーカーによってフェロモン率はまちまちですが、
墨には必ず媚薬が含有されているといえるでしょう。


また硯や紙や筆にもそれぞれ匂いがあり、
それらが触れ合うことでもムスクっぽさが揮発します。
乾いて額や掛軸にするとその匂いはなくなってしまうんですけどね。


森大衛の書は色香があるといわれることがよくあります。
「エロい」とまでいう人がいます。
しかし書はそれを意識して表現するものではないし、
意識して書いたこともありません。
しかしそう感じさせる何かがあるとしたら、
墨というフェロモンに包まれながら
文字や言葉たちの息吹を描いているからかもしれません。

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2007年11月17日 (土)

生徒達の作品制作錬成会初日が終って、今帰宅した森大衛です。

普段は「なんじゃこりゃ?」って字を書くヤツらばかりですが、
独立書展に出品する時だけは燃えるみたいで、
そこそこ良い作品を残しています。
今回もいい感じで完成に向かうんじゃないかな?
なんていうと図に乗りそうなのであんまり言いたくないけど。


さて、今日は「解」という作品で、
“触覚”についての考察です。


Toku


この作品は、絡まったリボンが解ける感覚を意識して、
ハリのある線、ゆるんだ線、ねじれた線、ひるがえった線、
放つ線、引き戻す線、線の表と裏と側面などを、
筆の軌跡がそのまま現われる淡墨という
嘘のつけない素材で書いてみました。
嘘がつけないということは、逆に軌跡が露になることを
生かしたということになりますね。


実際にリボンを空中でひるがえす行為は簡単かもしれません。
しかしその軌跡を平面に書き残すということは、
筆が紙に触れている微妙な感触を把握し、
第一画から最終画まで途切れることのない
時間の経過の中で空間処理も計算しながら
一気に書き残さなければなりません。

ただし、その行為が文字や書としての表現を逸脱してしまっては本末転倒。

脳内のイメージと具現化とのせめぎ合いを指先の機微で
駆使するのが書表現の醍醐味かもしれません。

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2007年11月16日 (金)

後輩

071116_01230001

今回は少し趣向を変えた内容でいこうと思います。
五感についてはまたあらためて考察していきたいと思います。


一緒に写っているのは、今年の春の昼ドラ「麗わしき鬼」で、みちる役をやっていた俳優の内浦純一君です。僕の中学高校の後輩で、10歳年下なのでかぶってはいないけれど、彼の在学中に僕の同級生が担任をやっていたりして、人と人とのつながりって不思議なものだとつくずく感じます。
今日は富山に舞台公演で帰郷していて、主演の柴田理恵さんや共演者の皆さんと楽しいひとときを過ごさせていただきました。柴田さんにもご自宅に招いていただいたり、ご実家の八尾町の老舗旅館に作品を納めさせていただいたりと懇意にしていただいています。(その作品についてもいずれご紹介させていただこうと思います。)


さて、その内浦君ですが、彼は仲代達矢さん主宰の無名塾出身の実力派俳優です。シリアスからコメディ、そしてオカマさんの役までこなし、そのバイタリティーはただものではないと思います。そんな彼と話していてお互いに一致したことは、どんな肩書きや知名度よりもいい仕事をする人間になること。


大らかで天真爛漫な彼が時折のぞかせる鋭い眼光には、役者としての風格を感じます。

内浦純一公式ブログ

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2007年11月15日 (木)

ANNIVERSARY

Anniversary


この「ANNIVERSARY」は今月連載最終回の『刃-JIN』に掲載します。
掲載内容とダブるのはよくないので、ココでは違う視点で話をさせていただきます。
ココと『刃-JIN』両方の内容を照らし合わせて読んでいただくと
さらに興味深い内容になると思います。

この作品を書いた筆は、超細微光鋒の超長鋒羊毛筆。
爪楊枝5本ほどの太さと長さで当時10万円。
久保田号の「寿昌」よりも細微でシルクのように艶やかな光沢で
「この毛質の筆はこの1本しか作れなかった」と言われました。
墨は濃墨では最高級の当時10丁型3万円の玄林堂の「九十九寿」。
それを富山の霊水と端渓硯で丁寧に摩り込みました。
紙は紅星牌棉料単宣。

さて、専門家でなければわからないようなことをつらつらと書いてしまいましたが、
今回はこの作品と聴覚についての考察がメインです。

この作品は18年前に松任谷由実さんの「ANNIVERSARY」を聴いて聴いて
聴きまくりながら書きました。といっても書く為に聴いたのではなく、
聴いていたら思わず書いてしまっていました。
思わずというところがいかにも音に導かれた感覚かもしれません。
音楽とは、空気という目には見えない微風が鼓膜を振わせ、
それが身体に染み入って心の琴線に触れる。
その琴線という弦をやさしく爪弾くように筆が紙に触れながら、
この作品は突如眼前に現れました。

たまたま「ひとり残されてもあなたをおもってる」というフレーズだけを
書いたけれど、その言葉だけではなく、イントロからエンディングまでの
存在感が紙面に現れた一枚といってもいいかもしれません。

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2007年11月13日 (火)

五感

五感
祝 NHK紅白歌合戦 白組司会者決定!

ということで、笑福亭鶴瓶師匠とのショットともに
「五感」についての考察をと思います。


五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことをいい、
書は視覚芸術です。


しかし、書を表現する行為においては、
すべての感覚をフル稼働することが味わい深い作品へと導いてくれます。


まず、味わい深いという言葉を使いましたが、
よく僕の作品の質感は「美味しそう」と言われます。
墨自体は特に美味しいものではありません。
しかし墨は生物であり生き物なので、
摩った墨を数日間放置すると腐敗します。
冷凍して賞味期限を改ざんしようとも
容赦なく変質するので食品よりもデリケートな存在です。


日本には「うま味」という味覚表現があり、
味の素などのグルタミン酸がそのうま味成分なわけですが、
うま味とは「旨さ」「美味さ」「上手さ」「巧さ」
そして「甘さ」とも表現され、書家はそのデリケートな墨を
どう調理するかが腕の見せどころ。
硯を選定し、水を選定し、紙を選定し、筆を選定し、
言葉も選定して墨の「うま味」を引き出すわけです。


と、ココまで書いて味覚だけで随分長い文章になってしまったことに気がつきました…

他の感覚についてはまたあらためて考察していきましょう。


ちなみにこの「五感」は実は墨汁で書いています。
墨汁は摩った墨とは成分が若干違い、防腐剤も入っているので
腐敗しづらく生物とはいえないかもしれません。
書き味も粘り気が強かったり、逆に水を足すと
滲みがいびつになったりしてしまいます。
しかし僕の作品が「墨の黒が綺麗ですね」と言われるのは、
摩った墨の味わいを熟知し、その質感に限りなく近い
仕上がりを肌で知っているからかもしれません。

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真面目ブログ始めます。

こんにちは、森 大衛です。


いやはや、どーうしましょ?


分身の「おまもり大衛クンの旅」ブログは
↓ここで
おまもり大衛クンの旅
スタートしてるんですよ。


でも、多くの方々から

「もっと書家目線の真面目なブログはやらないのか?」

と言われまして…


まあ、そういう想いは作品に封じ込めるのが書家のあるべき姿であり、
雄弁に言葉にすることで逃げてしまう“気”というのもあるわけなのですが、
連載の時代劇漫画雑誌『刃-JIN』の「森大衛の一筆入魂」が、
今月で最終回を向かえることもあり、思い切ってこのブログでは、
書を生む楽しさ、書を生む苦しさなど、真面目な話をしていこうと思っています。


そのうち「おまもり大衛クン」もこっちに顔を出してくるかもしれませんけどね。

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